古くから京都の東に位置する近江は、東国・北国への通過点でした。
複数の主要街道が国中を貫き、中央には大量輸送の大動脈琵琶湖があります。
ここを往き交う物や情報、そして人、これこそが近江商人を誕生させた大きな要因の一つだったのではないでしょうか。
江戸時代後期から明治時代にかけて、東近江市域から多く近江商人が輩出されました。その先覚となった商人がいます。彼らのことを「四本商人」と呼びました。東近江市内の保内・小幡・石塔、愛荘町の沓掛に拠点を持つ商人たちです。
彼らは中世、伊勢方面の産物である海産物や塩、布などを商っていました。市場での売買は言うに及ばず、小売りまでも行いました。伊勢との交易は鈴鹿山脈を越えることから、この商人たちを山越商人と呼びました。
小田苅町(湖東地区)にある近江商人郷土館は、当地出身の近江商人小林吟右衛門の本宅です。初代が寛政10年(1798)に近江麻布の行商から始め、現在もチョーギン株式会社として続いています。この社名が示すとおり、屋号は「丁子屋」といい、「丁吟」とも呼ばれていました。
館内には、小林家にまつわる数々の品が展示されています。中には伊藤若冲作の掛け軸もあります。また、嘉永五年(1852)井伊直弼の藩内巡検で宿泊所となり、急遽増築した部屋(現:仏間・内部未公開)があるなど、歴史を感じられる施設です。
昭和40年代ごろまで、身近な印刷機として普及していた「ガリ版印刷」を御存じでしょうか? これを発明したのが、堀井信治郎です。初代、二代目と、二人の功績により、「堀井謄写堂」の名が世に知れわたることとなりました。
この本宅が「ガリ版伝承館」として、活用されています。館内では、当時では珍しい照明用のガス配管があったり、暖炉を備えた洋館があったり、堀井家の生活ぶりがうかがえます。また、ガリ版体験教室も開催されることがあります。(要問合せ)
3階建ての建物の3階部分に、近江商人に関する展示があります。近江商人の商法や家訓、その暮らしや文化、教育など、近江商人の姿を解説しています。
2階は中路融人記念館です。中路融人画伯のお母さんが東近江市出身で、画伯も幼いころから東近江市の風景に触れておられました。こんなことから、画伯の作品には東近江市や県内の風景がたくさんあります。ぜひとも、情緒あふれる画伯の作品をご覧ください。
重要伝統的建造物群保存地区の五個荘金堂町にある五個荘商人の本宅を公開している施設です。
中江準五郎邸は、戦前に朝鮮半島・中国大陸を中心に20数店の百貨店を経営した「百貨店王」三中井一族の五男である中江準五郎の本宅です。2階建ての切妻瓦葺で庭は池泉回遊式となっており、2階からは、まるで当時にタイムスリップしたかのような眺望をお楽しみいただけます。
外村繁邸は、湖国が生んだ作家外村繁の生家です。蔵は「外村繁文学館」として第一回芥川賞候補にもなった繁の作家人生を公開しています。
藤井彦四郎邸は、宮大工による総ヒノキ造りの客殿、ユニークな洋風、ログハウス風の洋館と、珍石、名木を配した、琵琶湖を模した池泉回遊式の大庭園と土蔵が立ち並んでいます。
※詳細はタイトルの各屋敷名をクリックください。
中山道は、言わずと知れた日本の大動脈です。古代壬申の乱では、大海人皇子軍が攻め上がった道です。幕末には、皇女和宮が江戸に下向した道です。この道を踏襲、バイパスとなった国道8号線を東へ一歩入ったところに、旧中山道があります。ここに立つと、国道の喧騒が噓のように消え去ります。所どころで見られる松、懐かしい茅葺の屋根、しっとり落ち着いた街並みを見ていると、ここを通り過ぎて行った数々の歴史が心の中によみがえるようです。
鈴鹿山脈で隔てられた伊勢と近江との交流は、古くからありました。この交流を担った街道は南北に複数あります。東近江市域においては、中世の山越商人などが利用した八風街道・千草街道がその代表です。
時代によってルートは多少異なりますが、中山道と伊勢を結ぶルートであるといえます。西から東に向かって如来町に達すると「左 桑名山上永源寺」「右 四日市市原甲津畑」の石碑があります。ここから千草街道が分岐するのです。両街道の分岐点であることを示しています。
都の僧や貴族の峠越え、信長の狙撃事件など、数々の出来事を目撃してきた街道です。
野洲と鳥居本を結ぶ朝鮮人街道は、織田信長が安土を経由させる中山道のバイパスとして造成したと伝わっています。また、徳川家康が関ケ原の戦い後通過した、徳川家吉祥の道ともいわれ、朝鮮通信使を歓迎する意味もあって、通信使もこの道を利用しました。
朝鮮人街道に関わる遺跡が遺っています。国指定史跡伊庭御殿遺跡です。この街道を利用する家康・秀忠・家光が、彦根と野洲の中間点であることから、ここで休憩するための施設です。小堀遠州が建設工事の責任者で、当代一の技術で建設されました。その姿の一端を、現地に残る石垣が今も伝えています。