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佐々木六角氏・
観音寺城と今堀惣村文書の中世文化

 

≪ 中世の面影と織田信長 ≫

中世を通じて、東近江市域の領主であったのは佐々木六角氏です。
そして、これを支える国衆たちが、数多く住んでいました。
この中には、主家をしのぐほどの力を持つ者がいました。伊庭氏や後藤氏などです。彼らの居館や山城が市内各所でみられます。
またこの時期、民衆は「惣」と呼ばれる結合体を作って自治を進めました。その社会が生み出した歴史遺産も、豊富に残っています。
そして、中世から近世への扉を開けたのが織田信長です。彼の足跡は市内の各所で見受けられます。

 
 

近江守護佐々木六角氏

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 鎌倉幕府成立とともに近江の守護に任ぜられた佐々木氏は、小脇町(八日市、中野地区)に居を構えます。ここには、源頼朝も上洛の時、宿泊したとの記録があります。その後、近江八幡市の金剛寺に居館を移しますが、さらに戦国乱世とともに観音寺城を拠点とします。
 鎌倉中期、佐々木家は分立します。長男重綱の大原氏、次男高信の高島氏、三男泰綱の六角氏、四男氏信の京極家です。東近江市域は、嫡流となった六角氏の所領として続いていきます。

 
 

大本山永源寺

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 臨済宗永源寺派の大本山永源寺は、六角氏頼(ろっかくうじより)が帰依した寂室元光(じゃくしつげんこう)により開山されました。康安元年(1361)のことです。寺号の永源寺は、氏頼の法名「崇永(そうえい)」から「永」を、六角氏が源氏の流れをくむことから「源」をとって名付けられました。
 応仁の乱のころ、難を逃れるため、黄川景三(おうせんけいさん)や景徐周麟(けいじょしゅうりん)など五山の名僧が一時永源寺に身を置きました。このことは、当時の永源寺に彼らを受け入れる文化的環境があったことを物語っています。
 しかし、永源寺そのものも戦火にかかり、灰燼と化します。そしてその復興は、一絲文守が住持となり、彼に帰依する後水尾上皇などの支援によって遂げられていきます。

 
 

割拠する国衆たち

 主家である六角氏を支える国衆が、市内に多数存在しました。後藤氏は、永禄6年(1563)に起こった観音寺騒動の当事者です。六角義弼が主家を脅かす後藤家親子を殺害したのです。その館跡が、中羽田町(八日市平田地区)にある県指定史跡後藤館跡です。高い土塁、広い堀、大型石材を使った入口、どれもが後藤氏の力を物語っています。
 また、後藤氏の城と伝わるのが、繖山の北端近くにある佐生日吉城です。このほか、布施氏の布施山城・大森城、小倉氏の小倉城・和南城などでも、土塁などの遺構が良好に残っています。

 
 

中世の古文書

 東近江市は、全国でも中世の民衆が残した古文書が、数多く残っている地域です。その代表が、国指定重要文化財今堀日吉神社文書です。そのほか、市指定の光明寺文書・端家文書・山部神社中世文書・八王子法橋伝来文書・押立神社文書・八王子稚児宿伝来文書があります。
 これらの記述から、神社を中心にした組織があり、掟を決め、森林などの共有財産の管理、相論の裁定、年貢の納入などを行っていたことがわかります。このような仕組みを持った村を、惣村と呼びます。

 
 

惣村の力量 国指定重要文化財の社殿

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 文化財建造物の分野には、「古代の奈良、中世の滋賀、近世の京都」という言葉があります。つまり、滋賀県は中世の建造物が数多く遺存しているということです。
 この言葉のとおり、東近江市内にも複数の中世建造物があります。特に目立つのが、自立的・自治的村、惣村の核となった神社の建物です。国指定重要文化財に、押立神社本殿・大門、春日神社本殿、高木神社本殿、布施神社本殿です。中世民衆の懐の深さを感じずにはいられません。

 
 

惣村の力量 多数の石造塔類

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 東近江市から蒲生郡日野町にかけては、石造美術品の全国的宝庫といわれています。良質の石材に恵まれていたことが、一つの大きな要因であったようです。
 涌泉寺九重塔、赤人寺七重塔、石塔寺宝塔・五輪塔は国指定重要文化財、梵釈寺宝篋印塔は国指定重要美術品です。また、高木神社と河桁御河辺神社の石灯籠も、国指定重要文化財です。さらに、40件近くの市指定文化財があります。
 産地に恵まれたとはいえ、数多く伝わっている石造美術品から、当時の人々と当地域の中世文化の質の高さがわかります。

 
 

郷祭り

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 複数の集落がかかわる祭りを、郷祭りといいます。東近江市内でも、お祭りが複数執り行われています。押立神社では、実に16もの集落がかかわっています。
 郷祭りの起源は、中世にさかのぼるというのが定説となっています。またその背景には、水利共同利用の調整・荘園の起源と経営・土豪同士の結びつきなどがあるようです。
 五穀豊穣を願う春祭りに重きをおくのが、東近江市内のお祭りです。春先の御河辺祭り・建部まつり・川原祭りなど、郷祭りを一度ご覧になってみてください。中世の息吹が感じられるかも。

 
 

勧請吊と太鼓櫓

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 東近江市内の集落入口で、大きな注連縄のようなものが架けてある光景を目にすることがあります。これは勧請吊と呼ばれるもので、村内安全や五穀豊穣を祈って正月に行われる伝統行事の産物です。その起源は、中世惣村にさかのぼります。勧請吊の分布は、全国でも東近江市周辺が最濃厚分布地です。現在でも、70か所近くに及びます。
 勧請吊のある集落で、すらっとしてひときわ高い建物と出会うことがあります。太鼓櫓です。上部に取り付けられた太鼓をたたいて、時間を知らせたり、災害などの危機を一早く伝えたりしたものです。これも、中世惣村以来の伝統です。

 
 

信長の足跡

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 永禄11年(1568)織田信長は足利義昭を奉じて、近江へと侵攻してきます。これが、東近江市域と信長の大きな関係の始まりです。それは、中世以来の名家佐々木六角氏滅亡の始まりでもありました。
 信長の生涯最大のピンチが、元亀元年(1570)にやってきます。越前攻めの最中浅井長政の裏切りを知り、京から近江を経て岐阜への逃避行です。六角と浅井は鯰江城に兵を入れ、千草街道沿いで杉谷善住坊に信長を狙撃させたのです。
 このピンチを乗り切った信長は、元亀4年六角の後盾となっていた百済寺を焼討し、鯰江城を落とし、六角の息の根を止めました。その後、天正4年(1576)から始まる安土城築城など、東近江市域には信長の足跡が数多くあります。

 
 
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