≪ 記紀と万葉に導かれ ≫
記紀(古事記と日本書紀の総称)ともに、東近江市での出来事が記されています。
例えば、後の雄略天皇に暗殺された市辺押磐皇子、白村江の戦いで活躍した朴市秦造田来津、
壬申の乱で大海人皇子側として戦った羽田公矢国、あるいは、天智朝の百済遺民などのことです。
また、万葉集の代表作の一つとして教科書にも登場する「あかねさす…」「紫草の…」の歌の舞台となったのも東近江市です。
後の雄略天皇が次期天皇の座を狙って、その有力候補であった市辺押磐皇子を暗殺した事件は、『古事記』、『日本書紀』の両方に登場します。家来とともに粗末に埋葬された遺体は、その後、息子たちによって手厚く葬られました。
明治時代、その埋葬地として宮内庁から選定されたのが、市辺押磐皇子御陵です。二つ並んだ古墳は皇子と家来のものです。考古学的には皇子の墓とはいえませんが、市辺押磐皇子主従のお墓として宮内庁の管理下にあります。
場所:東近江市市辺町(八日市・市辺地区)
江戸時代には、48基もあった古墳時代後期の群集墳です。現在は数基しか残っていませんが、どれも20m、30mの規模を持つ大型古墳です。集落内にある行者塚古墳は、隣にある2階建て民家と同じくらいの高さがあります。これらの古墳は、古代豪族依知秦氏代々の首長墓と考えられています。特に集落南東の水田地帯にある赤塚古墳は、朴市秦造田来津(えちみやつこたくつ)の墓とする説もあります。彼は、ヤマト王権が唐・新羅連合軍と戦う百済軍を救援に行った白村江の戦いで奮闘戦死したと『日本書紀』が伝える人物です。
場所:東近江市勝堂町(湖東地区)
『日本書紀』の中には、天智4年(665)に神崎郡へ、同8年には蒲生郡へ、百済からの渡来人を住まわせたとあります。それを裏付けるような歴史遺産が市内にたくさんあります。その中でも群を抜いているのが、石塔寺の石造三重塔です。国内にはほとんど類例がなく、韓国忠清南道扶餘郡場岩面にある長蝦里三重塔と似ているとの指摘があり、渡来人が建立したといわれています。司馬遼太郎さんが、著書『歴史を紀行する』で「私は生涯わすれることはできないだろう。」と記された国指定重要文化財の石塔です。
場所:東近江市石塔町860
長町から北に向けての地域には、ほ場整備以前、周辺の条里制地割とは異なる南北方向の水田地帯がありました。律令制国家による条里制水田に先行して開発された水田地帯です。ここを開発したのは渡来人であり、それを可能にしたのは愛知川からの用水路、愛知井です。
数mもある河岸段丘の高低差を、この人工水路は超えていきます。河岸段丘の傾斜と水路の傾斜を計算したうえで、工事を実施した結果です。この計算と工事技術を持っていた渡来人が、未耕作地を耕作地に変えたのです。
場所:東近江市上岸本町~湖東地区長町(愛東地区)
『日本書紀』は、天智7年(668)5月5日「天皇、蒲生野に縦猟したまう」と記します。また『万葉集』にも、「天皇、蒲生野に遊猟したまう時」として、額田王と皇太子(大海皇子、のちの天武天皇)の歌を掲載しています。ここに登場する蒲生野は、船岡山の西から北にかけての地域だと考えられています。このような歴史的背景から、船岡山山麓には蒲生野遊猟(みかり)図レリーフが、山中には額田王と大海皇子の歌碑が設けられています。万葉ロマン漂う船岡山です。
場所:東近江市野口町・糠塚町(八日市地区)
下麻生町には山部神社と赤人寺(しゃくにんじ)があります。二つを合わせると、山部赤人です。奈良時代前半期の歌人である彼の作品、約50首が『万葉集』にあります。柿本人麻呂と並び歌聖と称される山部赤人が、晩年ここに住んだという伝承が当地にあります。山部神社のご祭神は赤人その人であり、山部大神です。
神は仏の仮の姿とする神仏習合思想にもとづき、山部神社の神宮寺だったのが、赤人寺です。赤人がここを訪れた際、夢のお告げがあって建立したと伝えられています。境内には、文保2年(1318)銘のある国指定重要文化財石造七重塔があります。
場所:東近江市下麻生町(蒲生地区)